【教学ノート】10

大白法 平成27年2月16日(第903号)

 

「教学ノート」 10ページ 「自行と化他行」

 

 自行化他の自行とは、自身が成仏するための修行の意味で、 

御本尊様を信じて勤行・唱題に励むことを言います。 

 化他とは化他行とも言い、他者を教化する修行の意味で、 

他人の謗法を戒め、日蓮大聖人様の仏法を教えることを言います。

 この自行化他とは、「上に菩提を求め、下に衆生を化する(上に向かっては自らの成仏を求めて修行に精進し、下に向かっては他人のために衆生を教化救済する)」

という菩薩の修行を表わしています。

 

  大聖人様は、自行化他について『三大秘法抄』に、

末法に入って今日蓮が唱えるところの題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594ページ)

と仰せられています。

大聖人様が末法の今日に唱え始められた南無妙法蓮華経の題目は、前代に唱えられていた自行のみの題目とは異なり、自らも唱え、他に向かっても弘通されるという自行と化他にわたる題目なのです。

 ですから、日蓮正宗の信仰は、御本尊様を通じて、日々の勤行・唱題を基本とし、さらに他を折伏教化して大聖人様の正しい仏法を広める、自行化他の修行に邁進することが大切なのです。

 

 総本山第二十六世日寛上人は、

「自行若し満つれば必ず化他有り。 化他は即ち是れ慈悲なり」

(御書文段219ページ)

と仰せられています。

 これは、例えて言えば、コップの水を注いでいくとやがて水がいっぱいになりあふれます。そのコップの水がいっぱいになるまでが自行であり、 あふれて水が外に漏れ出すのが化他であるということです。 



法主日如上人猊下は、 

「唱題も折伏も一体であり、唱題行が、ただ唱題行だけに終わるのではなくして、

その功徳と歓喜をもって折伏を行ずることが最も大事なのであります」(大白法781号)

と、自行と化他行は一体不離の修行であると御指南あそばされています。

 私たちは、大聖人様の仏法を信じる弟子檀那として、まず自分自身が朝夕の勤行と日々の唱題をしっかりと実践し、強い確信と相手を思う慈悲の心を持って、多くの人たちを折伏していくことが大切です。 





🖊 ポイント

大聖人様は、『諸法実相抄』に、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし 」(御書666ページ)と仰せられています。私たちは、自行化他の信心に邁進することによって、大聖人様の御遺命である広宣流布を成就することができるのです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【教学ノート】9

大白法 平成26年12月16日(第899号)

「教学ノート」  9ページ  「折伏

 仏様は、人々を救済する二つの手段を説かれました。

 まず1つ目は、相手の能力に合わせて教えを説き、

次第に誤りを正して真実の教えに導く、摂受という方法です。

 2つ目は、相手の誤りを許さずに直ちに間違いを指摘して真実の教えに導く、

折伏という方法です。

 日蓮大聖人様は、「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす」

 (御書575ページ)

と、

現在の時代は間違った教えを信じている人が多いため、摂受ではなく

 直ちに誤りを正す折伏を用いるべきであると仰せです。

 具体的には、

大聖人様の正法を知らない人や正しい信仰をしていない人に、

不幸や苦悩の原因が誤った思想や宗教にあることを教え、

大聖人様の仏法こそが真実の幸福を得る道であると教えることを言います。

  折伏について『法師品』には、

法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。

如来の所遣として、 如来の亊を行ずるなり」(法華経321㌻)

と説かれています。

折伏は仏様のお手伝いとして布教をする尊い行為であり、

仏様と同じ振る舞いをするわけですから、その功徳も広大なのです。

 

また、御法主日如上人猊下は、

「まず折伏をすると、折伏された人が幸せになります。

同時に、折伏した人も幸せになれるのです。

過去遠々刧の様々な罪障、

これが折伏によってみんな消えていくのです」(大白法834号)

と仰せのように、

折伏をした人も折伏された相手も折伏の功徳により、

過去世からの様々な苦悩が解決され、幸せになることができるのです。

 

 さらに、

折伏と育成は同じ化他行」(大白法834号)

と仰せです。

育成とは、折伏された人が勤行・唱題できるように、

また、自ら進んで寺院に参詣できるようにしていくことを言います。

特に、折伏された人が今度は折伏できるように育成することが大切です。

 このように、

私たちは毎日の勤行と唱題を根本に折伏をすることによって、

多くの人々を苦悩から救うことができるのです。

  そしてさらに、折伏と共に育成をしていくことで、

ひいては世の中を清淨にして真の世界平和を築いていくことができるのです。






✒ ポイント

 大聖人様は折伏の実践について、

日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(御書1109ページ)と、

一人でも多くの人々に対して、大聖人様の正しい教えを、

臆することなく勇気をもって教えていくことが大切であると説かれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【教学ノート】8

大白法 平成26年10月16日(第895号)

 

「教学ノート」  8ページ  「唱題」

 

 唱題とは、御本尊様を信じて南無妙法蓮華経の御題目を唱えることを言います。

 

  日蓮大聖人様は、『日女御前御返事』に、

「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべき事を尤も大切なり」(御書1388ページ)

と仰せられ、一切の修行の中でも、唱題が最も大切であるとされています。

 

 この唱題の功徳について、

大聖人様は、『聖愚問答抄』に、

「南妙法蓮華経とだにも唱え奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき」

(御書406ページ)

と仰せられ、過去世から積んできた罪を消滅させると共に、様々な悩みや苦しみを乗り越えて、必ず幸せになることができると説かれています。

 それは、大聖人様が『法華初心成仏抄』に、

「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(御書1321ページ)

と仰せられるように、唱題によって自身に具わる仏性(仏になる種)が開いて成仏することができるからです。

 前御法主日顕上人猊下は、

「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮635号)

と仰せられ、さらに、「かぎりなく 境涯ひらく  題目を 常にとなえつ  広布目指さん」(同637号」

と御歌を詠まれています。

 このように、唱題の功徳は甚大であり、 勤行の際の唱題をはじめ、勤行以外でもより多くの唱題をすることが大切なのです。

 

 

 さらに、総本山第26世日寛上人は、『観心本尊抄文段』に、

 「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」(御書文段219ページ)

と仰せられ、自行である勤行・唱題の功徳が満ちるところに、必ず化他行である折伏の実践が伴うことを示されています。

 よって、 私たちは、御法主日如上人猊下が、「まず唱題をしっかりする。しかし、唱題が唱題だけに終わるのではなくして、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出るということが、極めて大切であります」(大日蓮 807号)

と仰せられるように、日々、勤行・唱題を一生懸命励むと共に、その大きな功徳と歓喜をもって、広宣流布の大願をめざして折伏に邁進していくことが大切なのです。





✒ポイント

 

総本山大26世日寛上人は、

妙法蓮華経とはどういうことか知らなくても唱えるだけで功徳があるのだから、篤き信心をもって唱える功徳は極めて大きなものである。

それはあたかも磁石が鉄を吸い、琥珀が塵を吸うように、この妙法の功徳による成仏は疑いない。唱題が最も肝要である(趣意)」(歴代法主全書)

と仰せられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【教学ノート】7

大白法 平成26年9月16日(第893号)

 

「教学ノート」  7ページ  「勤行」

 

勤行とは「勤めて善法を行うこと」を意味し、

信心をしていく上で最も基本となる大切な修行です。

 

 日蓮大聖人様は『御義口伝』に、

 「朝々仏と共に起き、夕々仏と共に臥す」(御書1749ページ)と、 

仏様と共に1日の生活を送ることの大事を教えています。

 

 朝の勤行は

御本尊様の功徳によって平穏で充実した1日を過ごせるように祈り、

 夕の勤行は御本尊様の御加護によって1日を無事に過ごさせていただいたことへの

感謝の気持ちをもって行うことが大切です。

 

 さて日蓮正宗では、

御本尊様に向かって法華経の『方便品第二』と『如来寿量品第十六』を読誦し、

「南無妙法蓮華経」の御題目を唱えることをもって勤行とします。

 

 この勤行には、正行と助行という二つの意義があります。

正行とは 御題目を唱えることで、 

助行とは『方便品』と『寿量品』を読誦することです。

 『方便品』と『寿量品』だけを読誦するのは、

大聖人様が『月水御書』に、

「殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り」(御書303ページ) 

と仰せのように、

他の26品と比較して勝れた意義と功徳が具わっているからです。

 

 

 


 また総本山第26世日寛上人様は、

「助行とは、方便寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す」(六巻抄161㌻)

と仰せであり、助行は正行の功徳を助け顕わすために行うという意義があります。

 

例えば

『方便品』と『寿量品』の読誦は、洗濯をするときに洗剤を加えて水の助けとしたり、

調味料が食べ物の味を引き立たせるようなものです。

よって毎日行う朝夕の勤行では、正行と助行を併せて実践するのです。

法主日如上人猊下は、

「朝夕の勤行をしっかりと行うことは、信心の原点とも言うべき最も大事なことであります(中略)朝夕の勤行をしっかりと行っていけば、そこから様々な問題が正しい形で必ず解決をしていくのであります。

それが、御本尊様の偉大なる功徳であります」(大白法843号)

と仰せられています。

 

 私たちは、信心修行における最も基本である勤行を毎日欠かさずに行うことで 、

日々、御本尊様の功徳に浴することができます。

そして

私たちはその功徳により、ふだんの生活の中で起こる様々な問題が正しく解決され、

充実した幸せな生活を送ることができるのです。

 

 

 

✒ポイントと復習

 

法主日如上人猊下御指南

「我々の日常の生活のなかで、信心が特別な形で存在しているのではなく、

ごく自然な形で生活のなかに溶け込んでいる状態が大事なのです。(中略)

朝夕の勤行をはじめ、家を出る時や帰ってきた時に、まず御本尊様に手を合わせて

『行ってまいります』とか『ただいま帰りました』と御挨拶をする。

それが生活のなかに、自然に溶け込んでいることが大事(大白法892号)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【教学ノート】6

大白法 平成26年8月16日(第891号)

 

「教学ノート」  6ページ  「信行学」

 

信行学とは、

仏道修行の根本となる信心・修行・教学の三つを言います。

 信心とは、

無疑曰信の清浄な心で、日蓮大聖人様の仏法の根本である 

本門戒壇の大御本尊様を信じることを言います。

 修行とは

大聖人様の教えに基づいて、

自らが御本尊様から利益を受けるために行を修めることと、他の人

にも利益を受けることができるように折伏することを言います。 

 教学とは、

大聖人様の教えを学び、正しく理解することを言います。

 この信行学の中で、最も大切なことが信心です。大聖人様は、

『念仏無間地獄抄』に、

「信は道の源功徳の母と云へり」(御書38㌻)

と仰せられ、信心は仏法の根源であると説かれています。

 また、「一信二行三学」という言葉があります。

  これはまず

信心を第一として、

信心から修行、

修行から教学が起こるという

順序次第を表わしたもので、

この修行と教学を進めていく上で、

さらに信心が深まっていくのです。

 ただし、総本山第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、

「仮令(たとい)信心有りと雖も若し修行無くんば

未だ可ならざるなり」(六巻抄71ページ)

と仰せのように、信心があっても修行に励まなければ、

それは正しい信心とは言えないと説かれています。 

 つまり、大聖人様が『諸法実相抄』に、

「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。

我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候」

(御書668㌻)

と仰せのように、

信心を基として修行と教学の二道に励むことが大切なのです。

 御法主日如上人猊下は、

「御本尊様は尊ぶのだけれども勤行は行わない、

というのではおかしくなってしまうのです(中略)

もしも仮にそのようなことがあれば、生活が乱れてくるのです。

もし仮にそのようなことがあれば、生活が乱れてくるのです。

つまり

信心が乱れてくれば、生活全体が乱れてくるのです。ですから

信行学の一つひとつが大切なのであります」(大白法755号)

と仰せられています。

 私たちは、常日頃から自らの信行学を磨いて成仏を願うと共に、

すべての人を幸せに導くために多くの人を折伏して、

平和な世の中を築いてまいりましょう。

 


ポイントと復習

大聖人様は行学の二道について仰せられた諸法実相抄の御文の最後に

「力あらば一文一句なりとも語らせ給ふべし」(御書668ページ)

と説かれています。

では、力がなければ折伏がしなくても良いのでしょうか。

そうではありません。

この御文は自分自身の力に応じて一文や一句でも他の人に語って、

折伏に励みなさいと仰せられているのです。

 

 

 

 

 

 

 

【教学ノート】5

大白法 平成26年7月16日(第889号)

 

「教学ノート」 5ページ 「修行」

 

 修行とは、自らの成仏のために、

日蓮大聖人様の教えに基づいて行を修めることをいいます。

 

 大聖人様は、

 

「深く信心を発こして、 日夜朝暮に又懈らず 磨くべし。

何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、

是をみがくとは云ふなり」(御書46ページ)

と、信心を根本に、

南無妙法蓮華経の題目を唱えることが

大切な修行であると仰せられています。

 

 この題目とは、大聖人様が、

末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、

自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594ページ)

と仰せられるように、自行と化他行にわたります。

 自行とは 、

自らが利益を受けるために勤行・唱題に励むことをいいます。

 化他行とは、

他の人に利益を受けさせるために折伏をすることをいいます。

 勤行・唱題に励み、折伏行に邁進することによって、

成仏という真の幸福境界を得ることができるのです。

 

 また、大聖人様は、

 

「毎年度々の御参詣には、

無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。

弥はげむべし、はげむべし」(御書1502ページ)

 

と、登山の大事について仰せられています。





 登山とは、総本山大石寺に参詣することをいいます。

大石寺は、

大聖人様の御当体である本門戒壇の大御本尊と、大聖人様以来、

唯授一人の血脈相承を受け継がれた御法主上人猊下在す一閻浮提第一

(世界で最も勝れているとの意)の霊場です。

 大石寺に登山し、

法主上人猊下の大導師のもと、御開扉を受け、

広宣流布を真剣に祈ることによって、

私たちは、

過去世から現在に至る無量の罪障を消滅することができるのです。

 さらに、所属寺院は、 私たちの信心錬磨の道場です。

御報恩御講や広布唱題会をはじめとする

諸行事に積極的に参加して、法話聴聞し、

御本尊様に真心からの御報恩を申し上げていくことが大切です。

 

 御法主日如上人猊下は、

「幸せになるためには、そのための努力をしなければならない。

惰性に流され、何もしなくて幸せになったためしはない。

努力なくして幸せは掴めない。

そこに、我々の仏道修行がある」(大日蓮751号)

と仰せられています。

 私たちは、日々の修行に励むことによって、

どんな困難も乗り越えて、

幸せな生活を送ることができるのです。

 

 

✒ポイント

 大聖人様は、

「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、

足なくして千里の道を企つるがごとし」(御書814ページ)

と仰せられています。

 信心のない修行に功徳はありません。

確固たる篤き信心をもって、

一生懸命修行に励むことにより、

大きな功徳を戴くことができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【教学ノート】4

大白法 平成26年6月16日(第887号)

 

「教学ノート」 4ページ 「成仏」

 

 成仏とは、

文字通り「仏に成る」との意味ですが、

決して、金色の仏像のような姿に成ることではなく、

また現在の生涯を終えた後に仏に成るという意味ではありません。

 

 成仏の本当の意味とは、

正しい教えによって、私たちが現実の生活の中で

仏様のような理想的な人格を形成することを言います。

言い換えれば、どんな困難や苦悩をも

悠々と乗り越えられる境界になることを言います。

 私たちは、

仏に成る性質(仏様の生命(いのち))を誰でも具えています。

 

法華経には「貧人繋珠の譬え」という話が説かれています。

 「ある貧しい人(貧人)が、裕福な親友の家で食事をごちそうになり、お酒に酔って寝てしまいます。親友は寝てる貧人が後で困らないようにと、衣の裏に高価な宝の珠を縫いつけて出掛けていきます。

酔いから醒めた貧人は何も知らないため、家を立ち去った後も以前と変わらない少しの物を得ては満足する生活を続けていました。

 

ある日、貧人と再会した親友はその姿に驚き、衣の裏の宝珠に気がついていれば不自由なく暮らせたのにと告げました。

 そこで初めて貧人は宝珠を得ることができました」という話です。

 

 この説話において

親友とは、仏様のことであり、

貧人は正しい教えに依らずに、

目先のことで満足してる人々に譬えています。

つまり

愚かな衆生

仏様の真実の教えを知って

はじめて幸せな境界を築くことが

できたことを説かれています。

 すなわち、

誰もが仏様の生命を具えているとはいえ、

正しい教えによらなければ実生活に現れないのです。

 

 日蓮大聖人様は、

「始めて我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。

所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(御書1801ページ)

と、 日蓮正宗の正しい御本尊様を堅く信じて勤行や唱題に励むことで、私たちの心に具わる仏様の生命が現われると仰せです。

この姿こそ、

何よりも喜ばしい大歓喜の姿であり、真実の成仏の姿なのです。

 

 御法主日如上人猊下は、

「単なる理論では、人は幸せにはなれません。

信仰とは理論ではなく実践であり、体験であります。

したがって

朝夕の勤行をしっかりと行っていけば、

そこから様々な問題が正しい形で必ず解決をしていくのであります。

それが、御本尊様の偉大なる功徳であります」(大白法843号)

と御指南されています。

 

 私たちは成仏できる仏様の生命を具え、

さらには実生活に現わす方法を知っています。

したがって、

私たちは大歓喜の心を起こして御本尊様を信じ、

毎日欠かさず勤行・唱題に励むことが大切です。

そして実生活では、

どんな困難や苦悩も解決できる成仏の姿で、日々生活を送れるのです。