【教学ノート】3

大白法 平成26年3月16日(第877号)

 

「教学ノート」3ぺージ 「功徳」

 

 「功徳」とは、善い行いによって得られる福徳の意味です。

 また仏教では、仏道修行して悪を消すことを”功”と言い、

自己の善い行いによって与えられる結果を”徳”と言うと説かれています。

 


 つまり功徳とは、他の誰かから一方的に与えられる恩恵なのではなく、

勤行や唱題などの善い行いによって得られる、

善い結果を意味する言葉なのです。

 


 さて法華経『法師功徳品第十九』には、

 


法華経を受け持ち、読むなどの行為には、

眼・耳・鼻・舌・身・意(これらを六根と総称します)のそれぞれに多くの功徳が具わり、

その結果、六根のすべてが清淨になる(趣意)」(法華経474ページ)

と説かれています。

 


 日蓮大聖人様はこの経文について『 御義口伝』に、

「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」(御書1775ページ)と仰せです。

 


 私たちは生まれつき、六根を惑わし悩ませ、

正しい認識や判断をできなくさせてしまう”煩悩”というものを持っています。 

 


 しかし大聖人様の御言葉のように、

私たちは御本尊様に南無妙法蓮華経と真剣に唱えることで、

自身の六根を常に清らかな状態にしていただき、どんな困難をも正しく認識・判断して乗り越えていくことができるのです。

 


 また『日女御前御返事』には、

「御本尊様を功徳聚とも称する(趣意)」(御書1388ページ)と仰せです。

「聚」とは多くのものを集めるという意味ですから、御本尊様にはたくさんの功徳が具わっているのです。したがって、一切の功徳が備わっている御本尊様に南無妙法蓮華経と唱え、勤行するという行為には 、私たちが幸せになるためのすべての功徳が具わっているのです。

 

 

法主日如上人猊下は、

「一人でも多くの人が(中略)六根清浄の果報を得ていくことが、平和で幸せな世の中を構築していくことになるのであります」( 大白法703号)と仰せです。

 私たちは一生懸命、勤行・唱題し、寺院に参詣して功徳を積むことが大切です。たとえ勉強や部活動などで困難が生じたとしても、生じたとしても、御本尊様に戴いた六根清浄の功徳によって悠々と乗り越えていくことができるのです。 そして、私たちの信心による功徳に浴した姿が、平和で幸せな世界をも築いていくのです。

 

 


ポイントと復習

「願い事が叶う」これも一つの功徳の現われですが、大聖人様は、

「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」(御書1519ページ)

と仰せです。

「信心」とは前回学んだように、疑いのない心で御本尊様を信じることです。

つまり、願い事を叶えるためには強盛な信心を保つことが大切なのであり、

その方法の基本が勤行と唱題なのです。

 

【教学ノート】2

大白法 平成26年2月16日(第879号)

 

 「教学ノート」 2ページ  「信心」

 

 日蓮正宗の信心は、一切の誤った教えを捨てて、

日蓮大聖人様が顕わされた本門戒壇の大御本尊様を信じる心を言います。

  天台大師が法華経の経文を解説された『法華文句』には、

「無疑曰信」(法華文句記会本 376ページ)

と説かれています。これは「疑い無きを信と曰う」と読みます。

信心とは、仏様の教えに対する疑いのない清浄な心を言うのです。

 

 また、大聖人様は、信心について、

「仏法の根本は信を以て源とす」 (御書1388ページ)

仏道修行の根本であり、成仏の源であると仰せです。

 このように、

信心とは仏法の基本であり、清浄な心で御本尊様を信じることによって、

私たちは幸せな人生を送ることができるのです。  

 

 大聖人様は、この信心の姿勢について、

 「法華経を信ずる人あり、或は火のごとく信ずる人もあり。

 或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、

 とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」(御書1206ページ)

と、信心を火と水に譬えられています。

 

 火のような信心とは、

教えを聞いたときは、火が燃えるように勤行や唱題に励みますが、

火はいずれ消えてしまうように、やがて止めてしまうような姿勢を言います。 

 

 それに対し、

水のような信心とは、

水が止まることなく流れ続けるように、 常に勤行・唱題に励む姿勢を言います。

 私たちは、どのような時にも

惑わされることなく御本尊様への止まることのない信心を心がけることが大切であり、

勤行・唱題や少年部の活動を

一生懸命取り組もうという気持ちを持って続けていくことが大切なのです。 

 

 また、大聖人様は、私たちの信心と生活の関係について、

「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(御書1220ページ)

と仰せられています。

  みやづかいとは、

仕事のことですが、皆さんに当てはめれば勉強やスポーツなどになるでしょう。

要するに、

仕事や勉強など、生活のすべてが御本尊様のためであるとの確信をもって、

信心に励みなさいと説かれているのです。

 私たちは、常日頃から信心を中心にした生活を送ることが大切であり、

その功徳によって自分自身の命が変わり、

さらに

自らの命が変わることによって

周りの環境や状況をよりよい方向に変えていくことができるのです。 




「信心」について

法主日如上人猊下御指南

「普段から朝夕の勤行をはじめ唱題会・少年部会等に参加して、

まじめに取り組んで信心を鍛えている人は、

少しぐらいのことには微動だにもしません。

大きな障害や困難にぶつかっても、普段の信心の結果が発揮され、

必ず大御本尊様の大きな功徳をいただき、乗りきっていくことができるのであります」

(大白法795号)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【教学ノート】1

大白法 平成26年1月16日(第877号)

 

「教学ノート」1ページ 「はじめに」

 

 今回から始まる「教学ノート」とは、

日蓮正宗の信仰を正しく行うために日蓮大聖人様の教えを学ぶノートです。

この「教学ノート」の’’教学’’とは、

一般的な教育と学問・教えることと学ぶことなどの意味ではなく、

日蓮大聖人様の教え、日蓮正宗の教義を正しく学ぶ」という意味です。 

 前御法主日顕上人猊下は、大聖人様の教えを学ぶことのすばらしさを、

「仏法の教えを少しずつ学び、 身につみ 知るとき、今まで見えなかったものが見え、

識らなかったものが明らかとなって、法の悦びに心が 高まる。

まさに真の遊楽であり、あらゆる人の実生活に即した尊い大光明である」

(大日蓮587号)と仰せです。

私たちは日蓮正宗の信心を根本に、

しっかりと学校で教わる勉強と一緒に仏法の教えを学んでいくことで、

本当の幸せを知ることができるのです。

 さて涅槃経には

「信ずるものにして慧無くば顛倒して義を解するが故に、法を聞く者にして仏法僧を謗ぜしむ」( 御書291ページ)と説かれ、

信心がある人でも正しい智慧がなければ、教えを誤って理解してしまい、

仏様・教え・僧侶(仏・法・僧の三宝)を

非難することになってしまうと説かれてます。

本来敬うべき三宝を非難することは、大きな罪となり、絶対に幸せにはなれません。

せっかく大聖人様の正しい教えに巡り会うことができたのですから、

「教学ノート」を通して御書や御法主日如上人猊下の御指南を拝読し、

しっかりと正しい知恵を身につけ、信心をより強固なものにすることが大切なのです。 

 さらに御法主上人猊下は、

「やはり教学、学問というのは最終的には一つの行動として現れなければならない。

(中略)『学は之れを行うに至って止まる』という言葉があります。

学問というのは行動に出て初めて完成するという意味であります。(中略)

ただ学問として、知識として内に秘めるだけで理として持っているだけではなくして、

広宣流布のためにしっかりと役立てていく

実践行動のための教学こそが大事ではないかと思います」(大日蓮726号)と

仰せです。

 したがって、

ひとえに「教学ノート」を1ページ1ページと読み進めて大聖人様の教えを学び、

さらに、身につけた教学をしっかりと日々の信心修行や実生活、

さらには広宣流布のために役立てていくことが重要なのです。

 

 ポイントと復習

 ここでは、毎日の教学のポイントをまとめたり、

または、以前に学んだ用語が出てきた時などに、

必要に応じて復習を兼ねて簡単に説明します。

 日頃、疑問に思ってることを書き留めて自分で調べて予習をしておくと、

さらに楽しいですよ。

 

【教学基礎講座】3

大白法(平成26年12月16日)第899号

仏教の起源 その②

釈尊の生涯ー

 現在、釈迦の生涯に関する年代や年齢などにいろいろな説がありますが、

ここでは日蓮大聖人様が用いられたと言われる『周書異記』の説に従って、

釈尊の生涯を紹介したいと思います。 

 

釈迦族

釈迦とは、現在のネパール地方の南部に住んでいた種族の名前であり、

この釈迦族は当時、 一種の共和国を形成していたと言われています。

まず十人の長を選び、その中から一人の長を選出して、これを王と称していました。

この釈迦族の首府を迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)と言いました。

 

釈尊の誕生〉

この釈迦族から出た聖者(ムニ)を尊称して釈迦牟尼世尊と言い、

これを訳して釈尊と言います。

 釈尊は迦毘羅衛城の浄飯王(シュッドーダナ)を父とし、

摩耶(マーヤー)夫人を母として誕生しました。

誕生した悉達多太子が、

七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言った話は広く知られています。

 

〈阿私陀仙人の涙〉

 浄飯王は太子の誕生を喜び、将来を阿私陀仙人に占ってもらうことにしました。

すると仙人は「この王子は将来、大王になってインドを統率するか、

出家したなら偉大な仏になるであろう。

しかし、年老いた私はその王子の成人した姿を見ることができない」と

言って涙を流したと言われています。

 

〈出家〉

悉達多太子は幼い頃から聡明であり、

青年時代には文武両道においても非常に優れていたので、

浄飯王は太子に王位を継がせようとしました。

しかし太子にはその気持ちはなく、

妃(きさき)の耶諭陀羅(ヤショーダラー)との間に

男子羅睺羅(ラーフラ)が生まれたのを機に、

出家の道を志す気持ちが次第に強まっていきました。

  ある時、太子は四方の城門から遊楽に出ることになりました。

ところが最初に、東の門から出ると老人に会い、 次に南の門より出ると病人に会い、

西の門から出ると死者に会いました。

そのたびに快楽の欲望を失い、

ますます俗世に嫌気が差した太子が最後に北の門から出ると、

身も心も清浄な一人の出家者に出会いました。

そこに正しく自分の理想の姿を見出した太子は、この時出家の意志を固めたのです。

これを「四門出遊(遊観)」と言います。

 

〈成道〉

王宮を出た太子は、

王から遣わされた阿若憍陳如(アジュニャ・カウンディンヤ)等五人の比丘と共に、

初めは阿羅邏迦蘭(アーラーダ・カーラーマ)

優陀羅羅摩子(ウドラカ・ラーマプトラ)という二人の仙人について

修行したと言われていますが、それによって悟りを得ることはできませんでした。

 その後、十二年間にわたってあらゆる苦行を修めましたが、

快楽に溺れるのと同様に、極端な苦行もまた無意味なことを悟り、

仏陀伽耶(ブッタガヤ)の近くにある尼連禅河(ナイランジャナ−)で沐浴し、

牧女の捧じた乳粥を食べて元気を恢復しました。

これを見た五人の比丘たちは、

釈尊が退転したと思い、皆その場を去っていきました。

その後、釈尊菩提樹の下の金剛宝座に座して沈思黙想の末、ついに悟りを開き、

ここに仏陀(覚者)となったのです。

時に三十歳でした。

この時、伽耶という町で仏陀が悟りを開いたということか ら、

以後この地を仏陀伽耶と呼ぶようになったのです。

 

〈転法輪〉

 釈尊は成道したその座で二十一日間華厳経を解き、

その後、

波羅奈国(バーラナシー)の鹿野苑(サルナ−ト)に行き、釈尊が苦行を捨てたとき、

その元を去った五人をまず最初に教化し弟子としました。

次いで、仏陀伽耶方面に行き、迦葉(カッサパ)三兄弟を弟子とし、

進んでマカダ国の王舎城(ラージャグリハ)へ入り、

そこで舎利弗(シャ−リプトラ)、目犍連(マウドガリヤ−ヤナ)の二大弟子を始め、

多くの人々を教化する一方、頻婆娑羅王(ビンビサーラ)によって竹林精舎、

また

舎衛国の須達(シュダッタ)長者によって祇園精舎が供養され教団は

大いに興隆しました。

 故郷の迦毘羅衛城に帰ったときは、

従弟の阿難、釈尊の子羅睺羅、義母の摩訶波闍波提、妃の耶諭陀羅等、

多くの同族が弟子となりましたが、

阿難の兄、提婆達多(デーヴァダッタ)は、

マカダ国の太子阿闍世と結託して釈尊の化導を妨害しました。

このような九横の大難と言われる法難に遭いながら法説き、

最後にマカダ国の霊鷲山グリドラクータ)で、

出世の本懐である法華経を説き明かしたのです。

 これら一大説教の内容は、

後に中国の天台大師によって五時八教として判釈されました。

 

〈涅槃〉

 五十年間の説法教化の後、拘尸那掲羅(クシナガラ)の沙羅双樹の下で、

二月十五日、八十歳で入滅されました。これを涅槃と言います。

 

〈八相成道〉

 仏が衆生を救うために、

御一生のうちに現わされた八つの姿を八相成道と言います。

 

八相成道とは、

①下天(都率天より降下すること)、

②託胎(母の体内に宿ること)、

③出胎(出世すること)、

④出家(家を出て修行の道に入ること)、

⑤降摩(悟りを妨げる魔を断破すること)、

⑥成道(悟りを開くこと)、

⑦転法輪(説法をして衆生を教化すること)、

⑧入涅槃(説法を終えて入滅すること)です。

 

 私たちは、この八相成道を示された釈尊の真実の目的が、   

法華経を説くためであったことを忘れてはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【教学基礎講座】2

大白法(平成26年10月16日)第895号

仏教の起源 その① 

 ー文明・社会的背景ー

 

「仏教」という言葉には、

「仏の説いた教え」と「仏になる教え」との二つの意味があります。

 この仏についても、

仏教ではその経典によって、様々に解き明かされており、

必ずしもインド出現の釈迦に限られたものではありません。

しかし歴史的に見れば、仏教はインドの釈尊によって初めて説き出されました。

今、私たちが、インド仏教の起源を学ぶことは、仏法者の常識として、

さらには大聖人の仏法を、より深く知るためにも、意義のあることと言えましょう。

 今回は、仏教が成立する以前のインドの様子について、

簡単に説明しておきたいと思います。

 

【仏教成立以前の状況】

 

〈文明〉

紀元前3000年から2500年頃にかけて、

当時インド領に属していたインダス川流域にはインダス文明が栄えていました。

 インダス文明は、メソポタミア文明エジプト文明中国文明等と共に、

人類最初の古代文明の一つであり、当時すでに下水道まで完備していた

モヘンジョ=ダロとハラッパーの両都市の遺跡は世界に広く知られています。

また、

当時既に文字を使用していたことも、古代文明の特色として挙げることができます。

このインダス文明の中心となった地域は、現在はパキスタン領になっています。

 

〈民族・人種〉

 紀元前2500年頃のインドには、ドラヴィダ族と言われる人種が広く定着し、

そのほかにも多くの人種がそれぞれの地域に住んでいました。

 紀元前1500年頃になって、

インダス川上流のパンジャーブ地方アーリア人侵入し、

先住民を征服したことから、次第に自由民(アーリア人)隷属民(ドラヴィダ人など)

との区別がつけられるようになりました。

 

〈階級制度〉 

 その後、アーリア人ガンジス川上流地方に移住した頃には、人種間の区別から、

職業や地位による厳格な身分の差別が定着し、 カースト制度と呼ばれる四姓制度が

確立されました。

 この四姓とは、

バラモン(婆羅門、司祭)・

クシャトリヤ(王候、士族)・

③ヴァイシャ(庶民・商工層)・

シュードラ(隷民=アーリア人以外の人種) 

を言い、

カースト(caste)とは、

ポルトガル語の casta(血統)に由来するインド社会で歴史的に形成された身分制度です。

このカースト制度は、

その後さらに細かく分かれて、その数は4000種にもなり、異なった階級の間での

結婚はもちろんのこと、食事を共にすることさえも禁じられたのです。 

 

バラモン教ヴェーダ聖典

 このような社会体制の基盤となったのは、

アーリア人による「リグ・ヴェーダ」を根本聖典とするバラモン教でした。

アーリア人はもともと宗教的な民族で、

大自然の現象を畏敬し、自然の力を神格化しました。その大自然の神々への讃歌・

祈祷・呪法・音楽などをまとめた聖典を「リグ・ ベェーダRigVeda]と言います。

(「ヴェーダ」とは「神聖な知識」という意味です)

 この「リグ・ヴェ−ダ」が基本となって、

さらに三つのウェーダ聖典が作られました。

 大聖人様は御書に、この四つのヴェーダを「四韋陀」と記されています。

 このように

紀元前1500から500年ごろのインドは、「ヴェーダ時代」とも言われるように、

バラモン教が広く行われ、それにつれて四姓制度も深く定着していきました。

ガンジス川で沐浴し、牛を崇めることで知られるヒンドウー教は、バラモンの思想が基礎となって出来た宗教です。

 

〈その他の思想・宗教〉

 長い年月にわたってヴェーダ聖典を尊重する中で、

経典「ブラーフマナ」に 代表される祭式万能思想が生まれ、さらに知識を重視し、

宇宙の根本真理を探究する思想が芽生えてきました。

 特に、「 リグ・ヴェーダ」に 端を発した真理探究の思想は、

紀元前800から500年ごろに至って、ウパニシャッド( 奥義書)哲学として

結実します。

 このウパニシャッドーの思想とは、

宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と 個人の存在の根本原理アートマン(我)とが

同一であるという「梵我一如」の考え方が基本となっています。

 この他にも『開目抄』等にみられる三人のバラモンの行者(三仙)、すなわち

迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の教えがあり、また釈尊が出現された時代には、

中インドで六師外道が勢力を誇っていました。

 『三三蔵祈雨事』には、

「外道と申すは仏前800年よりはじまりて、はじめは二天三仙にてありしが、やうやくわかれて九十五種なり」(御書八七六㌻)

とあります。

 ここでいう「二天」とは、

古代インドで崇拝された 摩醯首羅天(大自在天)と毘紐天(自在天)のことです。

 

        ◇  ◇

 

 バラモンをはじめとする仏教以外の思想について、大聖人様は

『開目抄』に、

「外道の所詮は内道に入る即ち最要なり」(同 五二五㌻)

と、 法華経の開会の立場から内道(仏教)に入るための序段と位置づけられています。

 なお、これらの思想・宗教は、

いずれも因果の理法が明確でなく、現実から遊離した教えであったために、

すべての人を根本的に救済する力はなく、カースト支配の社会体制を改革する

こともできなかったのです。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【教学基礎講座】1

大白法(平成26年9月16日)第893号

「釈迦のめざしたもの」

 《はじめに》

 このたび平成四年二月号より毎月一回全三十二回にわたり連載した

「教学基礎講座」を再掲載することになりました。

  この「教学基礎講座」では初めに釈尊について、その生涯と教義を概説します。

さらに仏教の教理の中から主要な語句を解説しながら、基本的な教義を順次紹介し、

その後、

釈尊法華経、天台・伝教の法華経、そして日蓮大聖人の文底下種の法華経について、

それぞれの立場と関連性を述べ、

最後に日蓮大聖人の仏法全般からその要点を解説します。なお、再掲に当たっては、

今後の法華講員の教学研鑽に役立つよう、必要な部分については加筆・訂正します。

 

 仏教は、すべての人の根本的な救済を目指しています。

 では釈尊はいかなる理念をもって民衆を救済しようとしたのか、

二つのエピソードから考えてみたいと思います。 

 

四門出遊(四門遊観)〉

 釈尊はカピラ城の太子だったとき、王城の四つの門から外出した際、

東門で腰の曲がった老人に、南門で死にかかった病人に、西門で葬列の死者に出会い、

これらの老・病・死という現実は誰人も逃れられない苦しみの相であることを知って、

その解決方法を考えているとき、北門で一人の出家者が身も心も清浄でいる姿を見て、

決然として出家の志を抱きました。

 

〈修行と開悟〉

 出家した釈尊は、まず二人の仙人を順次に訪れ、教えの通り禅定を修行しましたが、

満足のできるものではありませんでした。

 そこで釈尊は山林にこもって苦行を修しましたが、

それでも悟りを得られなかったため、

河で身を清め、村の少女が捧げる乳粥を食べて元気を取り戻しました。

そして苦行は悟りにとって無意義なものであることを知り、

近くにある菩提樹の下で沈思瞑想し、ついに大悟を得て覚者となりました。

時に釈尊三十歳の時であったと言われています。

 

〈現実重視〉

 これらのエピソードから釈尊が現実を直視した上で、人生を苦と捉え、

その解決の道を求めたことが判ります。すなわち仏教の基本理念は、

現実の人生を重視するところに立脚しているのです。

 

〈毒矢の譬え〉

 この苦を救済することについて、『箭喩経』という経典に「毒矢の譬え」があります。

それはおよそ次のような話です。

  ある人が毒矢に当たって苦しんでいた。

彼の親戚や友人は、早く医者に診せることを勧めたが、肝心の本人は、

「私に毒矢を射たのは、バラモンの人か、庶民か、それとも隷民か。

またその人の姓名は何というのか。

その人は長身か短身か、皮膚の色はどうか。どこに住んでいるか。

それが判らないうちは毒矢を抜き取るわけにはいかない」と言い、さらに彼は、

「この毒矢に使った弓は何か、どんな種類の弓か、その弓の弦は何で作られたものか、

矢幹は何か、矢は何の羽を使用したのか、毒の種類は何か」など

と質問し議論しているうちに、毒が全身に回って、ついに死んでしまったという。

 この喩えは、仏教の現実重視の立場を端的に表しています。

すなわち人生の悩みや苦しみを解決するのに、

直接役に立たない不毛の議論は避けるべきであると教えています。

 

〈仏教では超越神の存在を否定〉

 釈尊の生きた時代は、

「来世は現実に存在するか否か」「世界は有限か無限か」「身体と霊魂は同じか否か」

などの観念論が盛んに論じられていました。しかし釈尊は、

それらの観念論はいくら追求しても、直ちに結論を出せる問題ではなく、

かえって偏った考えに執着して、

正覚(正しい悟り)を得られないと戒められています。

また仏教では、現実から遊離した創造神や超越神などの架空の存在を認めず、

人間の迷悟(迷いや悟り)や禍福(災いと幸せ)は、

すべて自らの原因と結果によってもたらされるのであって、

それ以外の何ものでもないと説いています。

 最近仏教に名を借りた新興宗教が「霊界からのお告げ」と

称してこれを売り物にしていますが、

これなどは仏教とは似ても似つかぬ外道(仏教以外の低級宗教)と言うべきでしょう。 




〈未来の果は現在の因による〉

 私たちはややもすれば、

貪り・怒り・愚かという三毒の矢が我が身に刺さっているのに、

目先のことに執われて、毒矢を抜き取ることを忘れがちではないでしょうか。

  釈尊はこの世界の現実を見つめ、

人生を「四門出遊」に表わされる四苦・八苦そのものと見、その苦をさらに踏み込んで

この世のすべては苦であり、空であり、無常であり、無我であると達観しました。

そして諸々の苦の根本的解決は

三世(過去・現在・未来)に亘る因果の法に立脚しなければならないことを

明かされました。つまり現在の果報は過去の業因によるものであり、

未来の果報は現在の業因によると言うのです。

しかも三世は別々のものではなく、過去と未来は現在の一念に包含されるが故に、

過去の悪業を浄化し、未来に菩提の果報を得るためには、

現世において無上の善業たる正法に信順しなければならないと説いて、

釈尊は苦の現実相からの解脱をめざしたのです。

 



〈総本山の五重塔

釈尊の仏教はインドから日本へと東に渡ってきた。

末法において大聖人の仏法が日本からインドへと西に還り、

さらに広宣流布するという意義から総本山の五重塔は西向きに建っていると言われる。