【教学基礎講座】9

 「大白法」 平成27年7月16日(第913号)

【教学基礎講座】9

  十 二 因 縁

ー仏教の中心思想「縁起」ー

 

 「縁起」とは

 

 十二因縁とは縁起の理法を言います。

私たちはよく「縁起を担ぐ」などと言いますが、

このような時の縁起は「ものの起こる兆し」「前兆」などの意味で使われます。

また 「◯◯寺縁起」 などの場合のこれは、

「起こったいわれ」とか「由来」などの意味で使われます。

 縁起 とは「縁りて起こること」であり、

本来の意味は、他との関係が縁となって生起すること、

すなわち現象の相互依存の関係を示したものと言えます。

 現象というものは無常であり、常に消滅変化するものですが、

その変化は無軌道なものではなく、一定の条件の下では決まった法則があり、

それを縁起というのです。

 縁起 の考えは仏教の中心思想であり、他の宗教や哲学とは違う独特の教理です。

  十二因縁は「十二支縁起」「十二因生」とも称され、倶舎論などに説かれています。

釈尊は最初、声聞に四諦の法を説き、縁覚にこの十二因縁の法を説きました。

 

 「十二因縁の説明」

 

 十二因縁のそれぞれについて、

『大毘婆沙論』 には、次のように説明されています。

①「無明」とは、

過去の世に存在する諸々の煩悩のこと。

②「行」とは、

無明煩悩により過去世の善悪の行業を起こして、

今世の種々の報いを受ける原因のこと。

③「識」とは、

過去世の煩悩と行業により、心識が初めて母胎等に託生する一刹那の位置のこと。

前世の果報が転じ尽きて、

それに基づいて今世の生育の五陰(色・受・想・行・識) が起こる。

④「名色」とは、

母胎託生の第二刹那以後の状態で、名とは心法、色とは色法のこと。

心法は大小等の形と質量がないので名をもって表わす。

色法は極微の大小の形があり、六根の身根と意根のみあるので、名色と言う。

⑤「六入」とは、

六根のこと。六処とも言う。

母胎内において、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が具わる位を言う。

⑥「触」とは、

出胎より二、三歳までの位で、思慮分別することなく、ただ眼前の事物に触れるのみの状態を言う。

⑦「受」とは、

事物事相を領納する心を言う。 快く愛すべき境を楽として領納し、

不快の境を苦と領受し、そのいずれでもない境を関心なく領受する。

四・五歳より十四、五歳までの位を言う。

⑧「愛」 とは、

対境の資具と淫とを貪る位で、

十六、七歳以後、愛心増長し、諸物・諸品等に染著することを言う。

⑨「取」とは、

青年以後、 世を終えるまでの位で、

名誉欲やあらゆる利欲に執着し、貪欲のために日夜、忙惚することを言う。

⑩「有」とは、

行業であり、将来に種々の善悪の果を作る因となる業を言う。

これは未来の生の業因を意味する。

⑪「生」とは、

現在の業因によって未来の苦果を感ずる一刹那の五陰であり、

現在より未来に続いて生まれる初めの一念を言う。

⑫「老死」とは、

衰変を老と言い、壊滅を死と言う。



 「三世両重の因果」

 

 これらの十二支を過去・現在・未来の三世に亘る関係として

示したのが、三世両重の因果です。

 最初の無明・行の二支は過去世の二因を、

次の識・名色・六入・触・受の五支は現世の五果を示し、

これで過去と現世の第ー位重の因果を説き、

次の愛・取・有の三支は 現世の三因を、

最後の生・老死の二支は未来世の第二重の因果を説き、

全体で三世に亘る両重の因果関係を説き示すのです。

 つまり、

衆生の輪廻は窮まりなく、

善悪の因果の断絶がないことを十二因縁をもって表わすのです。 

 

「惑・業・苦の因縁」

 

また、 この十二支は、惑・業・苦の三つに摂せられます。すなわち、

惑は過去の「無明」と現在の「愛」と「取」であり、

業とは過去の「行」と 現在の「有」であり、 

苦とは、現在の「識」「名色」「六入」「触」「 受」と、

    未来の「生」「老死」の二果です。

 そこで、初めの

「無明」を滅すれば「行」が滅し、

「行」が滅すれば「識」が滅し、乃至「老死」が滅して

三界六道の惑、業、苦より離れることを説くのです。

  このように十二因縁は、

前因と後果が次第に連続して間断なく続いていくのです。

 

 「流転と還滅の十二因縁」

 

以上、十二因縁について説明しましたが、

大事なことは、

私たちの現実の苦悩に対し、その根源を突き止め、それを断つということです。

 その意味から「流転の十二因縁」「幻滅の十二因縁」ということが説かれます。

  すなわち、

「無明」から「行」が縁起し、その「行」から「識」が縁起する。そして

順に次第して「生」「老死」の苦の成立に及ぶという観察が「流転の十二因縁」です。

これは苦悩の生ずる法則を明かし、迷いの姿を示したものと言えます。

  これに対して

「無明」を滅すれば「行」が滅す、

「行」が滅すれば「識」が滅すというように順次、滅除していき、

最後に

「生」「老死」の苦しみを滅することを教えたのが還滅の十二因縁です。

 

     ◇   ◇

 

 十二因縁を観察するとき、

私たち一人ひとりの生命の因果の道理が明らかとなり、

苦悩の原因は、その道理に対する無知によるものであることが理解できます。

 縁覚は十二因縁によって悟ったと言われますが、

その悟りは小乗の仏果に過ぎず、真の悟りにはなりません。ましてや、

末法の私たちが、この十二因縁観によって修行しても成仏することはできないのです。

 大聖人は『御義口伝』に、

「元品の無明を退治する利剣は信の一字なり」(御書 一七六四㌻)

と仰せになっています。

  末法の私たちにとって、

苦悩の源である根本の無明を退治し、

成仏を遂げる方法は、御本尊に対する絶対の信を基とする仏道修行以外にないのです。